電池の歴史2 一次電池

[1] 空気電池(空気亜鉛電池)

 空気電池にはウェットタイプ(今はありません)とドライタイプとがありました。1907年(明治40年)フランスのフェリーによってウェットタイプの空気電池が考案されました。フェリーの電池は正極に炭素(正確には酸素が正極材料で、炭素は触媒であり、集電体です。)、負極に亜鉛、電解液として塩化アンモニウムを使用していました。

放電電流と容量の関係 (AWS-500)

 日本では、1935年(昭和10年)に古河電池(当時古河電気工業)が販売してから、松下電池工業が1985年、東芝電池が1987年から生産を始めました。長所はa)放電時の電圧変動が少ない。b)温度変化に強く、寒いところや暑いところでも使用できる。c)容量が大きい。用途は電磁石式電話交換機用、鉄道踏切警報機の軌道回路用、米国では鉄道信号などで、大きさは写真のAWS-500で、直径180mm、高さ315mmです。放電特性も参考に添付しました。しかし、用途もなくなり、JIS規格は1951年になくなりました。一方、ドライタイプもほぼ同年代に商品化され、サイズもウェットタイプと同様に大きなものでした。
 現在補聴器などに使用されているボタン形空気電池は1970年代後半に米国のグールド社(後に電池部門はデュラセル社に買収されました)が世界で初めて開発、発売しました。わが国では1980年代初めより開発が始まりましたが、関連特許が公開されなかったため、生産に踏み切れませんでしたが、デュラセル社が特許を買取り公開したため、昭和61年(1986年)から生産が開始されました。

[2] 酸化銀電池

 1960年に、米国エバレディーが、世界で初めてボタン形の酸化銀電池を商品化しました。日本では、日立マクセルが1976年に商品化したのが最初となります。日本の時計がクオーツ化して世界市場を席巻するに従い、それに装着される酸化銀電池も大幅に伸びました。一方計算機分野では、ICの進歩と相まって電卓が一般化し、特に酸化銀電池を装着した小型電卓が大量に生産されるようになりました。さらに携帯用の電子ゲーム機が子供の間で流行し、これにも大量の酸化銀電池が使用されるようになりました。
 しかしながら、1979年から1980年にかけて銀の価格が高騰し、酸化銀電池の価格も数倍の値段になってしまいました。このためこれに替わる電池として、アルカリボタン電池、あるいはコイン形リチウム一次電池の出現、さらに電卓には太陽電池が採用されるなどの現象となりました。結果的に、現在では銀の価格が下がったにもかかわらず、酸化銀電池を使用する新製品はほとんど出てこなくなりました。
 ただ腕時計用に関しては、時計の小型、薄形化が進行し、低消費電流化が図られ、電池側では、高容量化、耐漏液性および低温特性の向上が進められました。その結果、酸化銀電池は腕時計用に特化して着実に生産数量を増やすこととなりました。

[3] アルカリボタン電池

 1979年の銀の高騰により、それまで酸化銀電池を使用していた電卓、ゲーム関連の商品は一斉に代替電池を使用するようになりました。その代表がサイズ的にすぐ切り替えられるアルカリボタン電池でした。
 アルカリボタン電池は、既に1970年代半ばから生産されていましたが、前述のように銀の高騰により1979年以降酸化銀電池に取って替わって急増しました。その後、電卓やゲーム機にアルカリボタン電池が使用されなくなったことにより需要が減少していきました。しかし、現在でも電子体温計やキッチンタイマー、玩具、小型LEDライト、リモコン、メロディー電報、置時計などの幅広い用途で使用されています。

[4] リチウム一次電池

 エネルギ密度において、理想に近い電池といわれていたリチウム一次電池は、1950年代末頃に米国の宇宙開発関係で使用され始めましたが、日本では、松下電池工業が1976年に商品化したフッ化黒鉛リチウム電池が初めとなります。
 リチウム一次電池で使われる代表的なプラス材料としては、フッ化黒鉛、二酸化マンガン、酸化銅、塩化チオニル、二酸化硫黄など様々で電圧も異なります。
 しかしながら、液晶を使ったデジタル方式の腕時計が登場すると、自己放電の小さなリチウム一次電池を使用することで、従来の腕時計が酸化銀電池で3年しか寿命がなかったものが、一挙に2倍以上長持ちすると話題になり、デジタル腕時計用などにコイン形リチウム一次電池を使用するものが増え始めました。1979年の銀の高騰や、1985年頃から流行し始めたテレビゲームのソフトのバックアップ電源として使われたことなどが追い風となり、コイン形リチウム一次電池は急速にその数を増やしていきました。時計用電源以外では全自動カメラ用として広く使用されました。
 現在では、ヘッドランプ、全自動カメラやLEDライトからパソコンや家電機器、OA機器の時計機能の電源として、さらには各種メモリーバックアップ用にと、幅広く使われています。

[5] 高性能マンガン乾電池

 1956年(昭和31年)ごろまで、真空管を用いたポータブルラジオが普及していましたが、これにはB電源(B1~18号までの種類がありました。電圧は45Vもしくは22.5Vで、直列に電池をつないで高電圧を得ていました。)として高電圧の積層乾電池が使用されていました。真空管に替わるトランジスタを用いた低電圧、省電力の電子機器の普及とともに電池サイズは現在の単一、単二、単三、9V(006Pと呼ぶ、電池を6個積層)がポータブル機器の主流になりました。これに伴い、マンガン乾電池に対して放電性能、耐漏液性能などの高性能化が求められました。
 1963年(昭和38年)松下電器産業から高性能マンガン乾電池が発売されました。構造の改良、電解二酸化マンガンの採用などにより、従来の約2倍の時間放電できるようになりました。これが刺激となり、シェーバー、テープレコーダ、ラジカセなどの新しい乾電池応用製品が生み出されました。この電池は赤色で意匠された金属外装缶が用いられていました。

[6] 超高性能マンガン乾電池

 1969年(昭和44年)、さらに性能アップした超高性能乾電池が各社から発売されました。黒色を基調にしたデザインで、「赤」は高性能、「黒」は超高性能というイメージを作り上げました。
 「黒」は「赤」の約1.5倍の放電時間でした。

[7] アルカリ乾電池 (アルカリマンガン乾電池)

 アルカリ乾電池は、正極に二酸化マンガン、負極に亜鉛、電解液に水酸化カリウムまたは水酸化ナトリウムが使用されています。原理的には古くから知られていましたが、実用的な電池としては、1947年(昭和22年)、米国で「クラウンセル」の名称で扁平形が発売されたのが最初とされています。
 国内では、1964年(昭和39年)、日立マクセルから発売されました。電池の容量は同一サイズのマンガン乾電池の約2倍あり、大電流を必要とする機器に使用できます。アルカリマンガン乾電池の普及にとって、1980年(昭和55年)頃の自動焦点ストロボ内蔵カメラ、1983年(昭和58年)頃のヘッドホンステレオ、1988年(昭和63年)頃のミニ四駆の大流行によって、その需要が増大したことは特筆すべきことです。また、最近ではデジタルカメラの普及は電池性能向上に貢献しました。